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Your search : [ author:廖夢醒 (題字も)] Total 8 Search Results,Processed in 0.184 second(s)
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1. 下駄の鼻绪
筆者紹介 廖夢醒さんは、孫中山の片腕であった有名な革命家廖仲愷氏(一九二五年、蔣介石の陰謀により暗殺さる)と何香凝女史(一八七八~一九七二年)を両親として一九〇四年に香港で生まれ、日本生まれの弟廖承志氏とともに東京で成長した。のちには欧州にも留学し、一九三一年中国共産党に入党、革命闘争のなかで夫の李少石氏(一九四五年暗殺さる)を失った。新中国成立後、中華全国婦女連合会幹部などの任務につき、全国人民
Author: 廖夢醒 (題字も) Year 1980 Issue 4 PDF HTML
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2. 私の母何香凝(第4回)
右派に反対する母の闘争母は一生右派と闘い通したと言ってよいくらい、右派とは敵対関係にあった。父が世にあるころは、父とともに肩を並べて闘った。父が亡くなった翌年、一九二六年の五月に、国民党の第二回中央委員会総会があった。この会議で国民党の右派は「党務を整理する提案」をもち出したが、実際には中山先生の三大政策を破壊する陰謀であった。当時の共産党員らと母は中山先生の遺言に忠実な、真の国民党左派彭沢民、柳
Author: 廖夢醒(リャオモンシン)(題字も) Year 1973 Issue 2 PDF HTML
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3. 私の母何香凝(第5回)
抗日戦争のため帰国の途につく一九三一年、母はフランスから上海に帰ってきた。それは日本帝国主義がわが国の東北地方に対する侵略を開始し、蔣介石の不抵抗主義に力をえて、さらに南進しようとしていたときだった。母は外国にふみとどまっていることができず、いそいで荷物をとりまとめ、パリから上海へ帰る支度をすすめた。母の帰国を聞いて留学生たちは送別会を開いた。出席者のなかには、黄埔軍校の軍人もいたし、大革命時代に
Author: 廖夢醒(リャオモンシン)(題字も) Year 1973 Issue 5 PDF HTML
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4. 石
先日、南京(ナンチン)から友だちが見舞いにきて、雨花台(ユキオワタイ)の石を卓の上にならべながら言った。「石がお好きだときいて、雨花台へ遊びにいったとき拾ってきたものですが、病中のお慰めにもと思ってもってきました」友の厚い友情にわたしは感謝したが、石をみると心の古傷をえぐられることを、その友は夢にも思わなかったらしい。石が好きになったのは夫が殺されてからのことだった。反動派のために夫を奪われた時は
Author: 廖夢醒(リヤオモンシン) Year 1963 Issue 11 PDF HTML
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5. 二代にわたる交友
先日、宮崎世民先生が訪中され、わたしの母を訪ねてくださり、母とわたしたち姉弟は昼の食事をご一緒にした。わたしと世民先生とは解放ごはじめてのおつきあいではあるが、宮崎家とわたしたちの廖家とのおつきあいは父と孫文先生、宮崎滔天先生、寅蔵先生ご兄弟の時代にさかのぼる半世紀以上前からの久しい歴史をもったご交際である。宮崎先生がお見えになった日、母が「中国と日本の友好的な国交は遠く唐の時代から始まっておりま
Author: 廖夢醒(リヤオモンシン) Year 1964 Issue 1 PDF HTML
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6. 私の母何香凝(第1回)
何香凝全国人民代表大会常務委員会副委員長、中国国民党革命委員会主席、中華全国婦女連合会名誉主席は、病気のため一九七二年九月一日北京で逝去された。享年九十五歳。 何香凝女史は孫中山先生の革命的戦友であり、廖仲愷先生の革命的伴侶である。この革命の大先輩に心から哀悼の意を表するため、本誌はとくに女史の娘廖夢醒同志に依頼して、革命につくした何香凝女史の生涯について執筆していただくことにした。それを本号から
Author: 廖夢醒(リャオモンシン) Year 1972 Issue 11 PDF HTML
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7. 私の母何香凝
父を救うための闘い辛亥革命後、孫中山先生は、自分が指揮する軍隊をもっていないため、軍隊をもっている「同志」の力にたよって広東の根拠地をかちとったが、それらの「同志」は頼りにならなかった。陳炯明はその一人だった。このころ、中山先生はすでにロシアと連合して北洋軍閥勢力を徹底的に消滅する考えをもっていた。その第一歩として、広西にとぐろをまく軍閥をまず討伐し、南部から反動勢力を一掃するつもりであった。陳炯
Author: 廖夢醒(リヤオモンシン) Year 1972 Issue 12 PDF HTML
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8. 私の母何香凝(第3回)
中山先生の逝去と父の暗殺中山先生と、レーニンが派遣したロシアの特使ヨッフェーとの会談が上海で特務のさまたげで中断された。父は中山先生の命に従い、中山先生を代表して日本の伊豆海岸の熱海ホテルでヨッフェーと会談することになった。そのため、父は母をともない、中国北洋軍閥駐日代理公使をつとめていた伯父に婿を紹介するという口実で東京にゆき、東京公使館の自動車を利用してヨッフェーと会見しようとしたが、日本の特
Author: 廖夢醒(リャオモンシン) Year 1973 Issue 1 PDF HTML